(2024.12.29)

前段

宇宙のことは少しずづ解明されていますが、結局「で、その外はどうなってるの?」の問いについて、納得させてくれる説がネットで探しても見つからなかったので、自分でざっと考えてみました。腹落ち出来たので載せておきます。本当かどうかを保証するものではありませんが、筋は通っていると思います。

『制約条件のある宇宙と制約条件のない宇宙』

 私たちが住んでいるこの宇宙は、因果や物理、量子の法則などの制約条件のある宇宙と言える。
 この宇宙の外に「制約条件のない宇宙」が存在するのかについて、ないと言える根拠がない。※今後、「否定」出来ないことは「肯定」とみなして進んで行きます。(これがポイントかも、要は1/2の可能性を受け入れる)
 無限は物理的にあり得ないと考えるのが普通ですが、物理法則自体が制約条件なので制約条件の外では、無限の存在も否定出来ない。よって制約条件の外の世界には無限が存在し得る。(普通の物理的感覚では受け入れ難いですが、そこは論理で受け入れる)
 制約条件のない無限世界の中に、制約条件のある世界が無限の数存在する構造となる。具体的に言うと、織田信長が本能寺で討たれない世界線、あなたが今まばたきをする(しない)世界線、あらゆる可能性の世界線は既に存在していてる。その無限の世界線の一つを秩序や因果などの制約条件で辿って生きていると解釈できる。
 そう考えると、今住んでいる宇宙の細かい法則は今は重要ではない。

 因みに、なぜ因果や物理などの法則があるのかについて、考えられる可能性としては、無限の無秩序(ランダム)なものを整理して並び替えようという恣意的な営みが考えられます。
 簡単に例えると、例えば辞書。辞書はあいうえお順に並んでいますが、上3桁ぐらいまでちゃんと並んでれば、残りはランダムでも実用に問題ないといったことがあります。要は探し物をするときはまず大まかな整理がないと大変。「二重スリット実験」などで因果にムラがあるのは、要は因果はそこまで厳密に設定していないだけなのかも。
 そう考えると私たちが住んでいるこの宇宙は、誰かが何かの最適解を探すために作ったものである可能性もある。まぁ、ただの偶然かも。

 直近のこの宇宙はどうなっているかについても仮説を以下のページにざっと考えてみましたので良かったら読んでください。
「この宇宙どうなっているか仮説する」

『制約条件のない無限世界(宇宙)』

無限とは何かを考えると「存在」という概念に関係していると言える。無限は存在の全ての状態を表す方法と言える。(存在していない状態も含め)

『無限と存在の先にあるものは』

 「存在」以外の概念(カテゴリー)がそこには存在するのかを考えることは、すでに「存在」の域を出ていない問いでこの先は無意味とも言える。
※カント哲学:「人間の認識が「存在」の枠内で限定されている以上、その外側を考えることは論理的に不可能」

 だが、少しでも何とか捉える方法はないか模索する。
 「存在」とは例えば情報理論的な考え方に置き換えると、存在する⇒true⇒1、存在しない⇒false⇒0、で表すことが出来る。この0と1との「無限」の組み合わせで「存在」配下の全ての状態が網羅出来る。(シャノン情報理論)
 一方で「存在」の先の概念(カテゴリー)では「1:存在する」「0:存在しない」がまだ定義付けされていない、情報理論的に言うと「null(空)」的な状態、と捉えることが出来る。

 更なるアプローチとして
「1(存在する)」に対峙するものとして「-1」を置き、この意味合いをどう捉えるか考える(反存在の概念)。「存在」をただ消してるだけなのか、何かを創造してはいないのか、他に言えることはないのか、「0」と「-0」は本当に同じなのか。(マイナスの多面的解釈。無くすことで見える世界)

(ちょっと無理やりこじ開けた感満載ですが・・・認識出来ないことがあることを認識すべきと痛感)

『無限や存在も制約条件として捉える』

そもそも無限や存在も制約条件として見ることが出来るのではないかと気付いた。
 無限の条件:有限でないこと
 存在の条件:存在する、存在しない、それ自体が条件である

最終的な姿は空(null)というのははっきりしてきたが、空(null)と、この混沌とした宇宙(世界)の関係性を捉える必要がある。
 どこがで聞いたことのあるような話で、論理での決着と言えるのですが、
空(null)だけでは空(null)自身を定義できない。空(null)を定義するということはその対峙(混沌)も同時に定義することになる。
空と混沌は双子の兄弟みたいなものでどちらが先ではなく、両方揃ってこの世界である。

『空(null)と混沌(≠null)』

「空と混沌」についての吟味をする。
確かに、これは同時なのでどうしてできたかが問えず、出来るのが必然となってしまう。(上手くかわされたような・・・)

そもそも「どうしてできたか」「どのように出来ているのか」の問い自体が、因果などの制約条件の域を出ていない問いであることに気付いた。

「制約条件の外の世界を把握するのに制約条件を持ち出す必要はない。」

もはやアイデアを比べて、自分が最も妥当だと思えるもので腹落ちするしかない。真実はわからないまでも近づくことはできる。

私の場合、
①すべて神の御業なのか。 ⇒ 直近の上位宇宙には創造者はいるかもしれないが、「神」自体が制約条件といえる為、制約条件の域を出ていない。
②何かから出来た。 ⇒ これこそ因果で制約条件の域を出ていない。
③空と混沌 ⇒ 始まりが無く因果には当てはまらない(空があるから混沌があり、混沌があるから空がある。ニワトリが先か、卵が先かの状態)。だが、空と混沌が対というのが制約条件を付けているように見える。

この中で消去法だと③になる。

『無限を超え、存在を超え、認識を超え、論理を超えて
  ~ 空と混沌は対に見えて同じ ~  』

空と混沌が対というのが制約条件に見えるということが、まだ真相に辿り着いていないというシグナルと考える。
そこで認識や論理を度返したアイデアでもう一捻りして

「空と混沌は対に見えて同じ」

 私たちの制約条件付きの世界からこの現象を眺めていると空と混沌に区別されて見えるが、実は認識出来ないもっと多くの要素が詰まっている可能性があり、1つのものの数ある側面のうち2つだけが垣間見えているのではないだろうか。
 例えば点の概念。点は存在しているように見えて、よくよく考えると存在していない(3次元で言うと縦横幅が無い)ようにも見え、本当に在るのか無いのか定義が曖昧である。この在るでも無いでも無い曖昧な点が全てを織り成しており、あらゆるものはこの点の1形態で、つまり同じである。
 例えば、この宇宙のビックバン、ブラックホールなどの特異点は「特異」では無く、通常のノーマルな「点」に戻っているだけなのかもしれない。
 
 もはやこの領域のことは認識や論理を超えていて何でもありの世界なので、上記はあくまで私の主観ですが、各々の主観で理解して良いと思います。「あらゆる可能性は既に存在している」、ですし。

<気付いたことや感想>
人の嵯峨というべきか、「空」「混沌」といった区別など、スコープ(範囲)を知らず知らずのうちに狭めてしまっているのを思い知らされた。
AIに聞くと古代のインド哲学などで、私と近いことを言っているものがいくつかあるらしいです。差し詰め私は論理で探求したといったところでしょうか。言うなれば論理教ですかね。

論理教の最終奥義は
「論理を捨てなければ分からないことがある、と考えるのが論理的」かな。

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